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関が原偶感【其の参】異質なる合戦と毛利家の人々

(まえがき)
 今、二十年ぶりに司馬遼太郎の『関が原』を読み直しています。これは、このブログに掲載した小説『ホワイトデーお返し調整会議 男子達の関が原』を書くに あたって、資料として読み直し始めたものですが、ホワイトデー~を書き上げた今でも、手元に文庫本全3巻を置いて、暇があれば手に取って、開いた頁を数行 読んでは楽しんでいます。
 そうしていると、いわゆる関が原の合戦について、アレコレと考えるようになったので、ボチボチとその断片的な思いを綴ってみることにします。何かの折りの資料になればと。

 関が原の合戦前には大老格だった毛利家は、敗れて120万石の石高を四分の一程度に減らされてしまいます。毛利家は関が原では交戦していません。であるのに、何故そのようなメにあったのでしょうか。

 関が原の合戦と言えば、『徳川の東軍と石田の西軍が戦って、西軍だった小早川が東軍に寝返って、徳川が勝利した』、と思っている人は少なくないと思います。もちろん、これも誤りではありません。が、正確には西軍の総大将は毛利輝元であり、寝返りに重要な役割を果たした西軍の人物には、吉川広家という武将がいます。冒頭の言い方をこれに従って改めてみると、『徳川の東軍と毛利の西軍が戦って、

西軍だった吉川が、あらかじめ東軍に寝返っており、徳川が勝利した』というものになります。

 さて、毛利家には有名な

『三矢の教え』という家訓があります。これに従って毛利家は、吉川家と小早川家の補佐を得て、三頭体制で運営されていました。『毛利の両川』と呼ばれた、吉川元春と小早川隆景が存命中は、毛利本家(彼らは元々毛利家の二男、三男です)も安泰でしたが、この両川を次代の吉川広家と小早川秀秋(養子)が継いだ頃には、三頭体制の不確かなものになってきました。

 小早川秀秋は元々豊臣秀吉の甥でしたから、毛利宗家のことに関して強い関心を持ちにくい。吉川広家は自身も大名であり、吉川家に責任を持ちながら、毛利家の行く末を考えなければならない。その上彼は、毛利家の外交顧問である安国寺恵瓊と折り合いが非常に悪い。では、毛利家の当主自体はどうかと言えば、覇者・毛利元就の孫の輝元は、典型態な三代目で、坊ちゃん育ちの善良な凡人。要するに、関が原前夜の毛利家は三頭体制は機能不全に陥っていました。

 そんな中で天下分け目の合戦が始まります。毛利家内では東西いずれにつくかということで、吉川広家と安国寺恵瓊の主導権争いが始まります。(この時小早川秀秋は蚊帳の外です。)結果、政治力に勝る安国寺が石田三成と共謀して当主の輝元を西軍の総大将にしてしまいます。

 一方、吉川広家は徳川家康に近づき、毛利家の不戦を誓います。安国寺の専断によって形式上のリーダーにされてしまったが、戦場では毛利、吉川両家は戦わないので、その点を汲んでくれということです。事実、関が原では毛利、吉川両家は動きませんでした。その上、安国寺の軍も足止めさせるというオマケ付きです。

 小早川の寝返りだけでなく、吉川の不戦の大きく作用して、関が原の合戦は東軍の勝利をもって終結しました。果たして毛利、吉川、小早川、安国寺は徳川家康からどのような処分、あるいは恩賞を受けたでしょうか。

 吉川の石高は倍増、小早川の石高は微増、安国寺は首謀者として処刑。そして毛利は上述のとおり大幅な減封でした。ただ毛利の減封は、実は全領地没収のところを吉川が倍増された自分の領地を毛利に差し出すことで、なんとか毛利の家名を残したというものです。徳川に内応し、毛利の関が原での不戦を実現したにも関わらず、自分との約束を反故した徳川家康に、吉川広家は深い恨みを持ったことでしょう。(因みに広家は家康と直接に事前交渉をしていません。黒田長政ら東軍の有力武将を介して行っていました。)

 しかし、ここで考えたいのは、徳川家康は西軍の総大将となってしまった毛利輝元を許すことができたのかということです。関が原の合戦と一連の政争の正体は、ポスト秀吉時代を睨んだ大名間の権力闘争なのですが、表向きには『豊臣家の御為』『天下静謐の為』という大義のためになされたものです。

 いくら裏で話が出来ていたからと言って、敵方の総大将が所領安堵というわけにはいかない。たとえ形式上の総大将であっても、その『形式』というものの重さを吉川広家は見るべきだったのではないかと思います。秀吉による天下統一の過程及び天下統一以降は、合戦の意味が『切り取り次第』の戦国時代とは、異質なものになっていたのではないでしょうか。

 戦争は、暴力そのものの激突ですが、これを起すには、いわば大義というものが必要になります。言い換えれば、暴力は【正義】を装うというアンビバレントな複雑さがあります。戦争の規模が大きくなればなるほど、この正義はますます必要になり、その内容の抽象度も高いものになっていく。ともあれ、毛利家の人々はこの戦争の複雑さに翻弄されたと言えるのではないでしょうか。(了)

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